花弁が落ちていく。
 鮮やかに彩られ、褒め称えられた時を、忘れたかのように…。
 道路にたどり着き、人に踏まれて、色褪せる。
 忘れられたいわけじゃない。
 朽ちるために咲いているわけじゃないのに。
 でも人は、運命であるかのように、忘れ去っていく。


「おはよう、嘩月。気分はどう?」
 真っ白い部屋の中、色白の彼は、ベッドに横になっていた。起きているのかどうかはわからなかったけど、声を掛けることが、彼にとって
一番の安定剤になることを俺は知っていた。だからいつもまず先に彼に話し掛ける。
 陽にあたる機会のない生活のせいで、更に白くなって、皮膚が透けているのではないかと考えされられるほどの風貌に、いつもながら痛感
させられる。
 嘩月と呼ばれた少年は、自分を呼ぶ声に反応して微かに瞼を動かした。
「さ…くや? おはよう、今日も来てくれたんだね」
「当たり前だろ。…起きてたんだな」
 ふふっ…と嘩月は微かに笑った。今にも消えそうな笑顔がとても痛かった。
「そろそろきてくれそうな気がしたんだ。朔也を、待ってたの」
「……どうした?」
 心配そうに嘩月を見つめると、嘩月は静かに息を整えた。
「もう……、来ないで欲しいんだ」
 泣きそうな顔で言われても、説得力に欠ける。その言葉が心から言っているものじゃないという事は長年の付き合いですぐわかった。
「何でだよ……。迷惑だったのか?」
 自分がここに来ることは嘩月にとって重荷でしかなかったのだろうか。それとも、何か傷つけるようなことを言ってしまったのか。
「もういいよ。忘れようよ。朔也は悪くないから、僕が一人で起こした問題なんだ。僕の我侭で、朔也の人生を縛ってるのが嫌なんだ」
 五年前の春の夕暮れ時。
 秘密の恋人だった俺と嘩月に起こった事件。ほんの些細な喧嘩だった。いつもの痴話ゲンカ。でも違ったのは、たまりにたまった鬱憤で
二人がどちらも謝ろうとしなかったこと。そのうちどうにもならなくなって、泣きだした嘩月が部屋を飛び出た瞬間。猛スピードで
飛ばしてきた自動車と衝突して、現在病院を離れることの出来ない身体になってしまった。
 嘩月が言うように、俺一人の罪ではないのかもしれない。でも、結果的に彼をあんな身体にしてしまったのは俺自身なのだ。
何で一言謝らなかったのか。もう今更遅い事だけど、それだけにいつまで経っても悔やまれてならない。
 でも、俺は罪から逃れたいと切実に思っているわけでもなかった。だって俺は、嘩月と一緒にいることが嫌いではないから。
 それに、この罪は忘れてはいけないと思うから。
「……俺は、傍にいたい。同情とかじゃなくて、嘩月が大切だから。それでも、嘩月が望むなら、ここには、もう来ない……」
    泣くことが出来ない俺はどうしたらいい?
 本当は嘩月の答えはわかっている。けれど、俺の中ではそれを否定して欲しいと願っている。
 ごめん、未練たらしい男で。嘩月の方がしっかりしてるね。それに比べて俺は弱くて……。
 でも、嘩月を離したくないんだ。
「朔也。ごめん。もう朔也が苦しむのは嫌なんだ。僕のこと、忘れて…。しあわせに、なってよ…。僕も、僕なりの幸せを探しに行くから」
 初めて彼を見たときのように、とっても明るくて、前向きな笑顔。わざと明るくしてることは手にとるようにわかった。
 嘩月の瞳から涙が零れ落ちていた。
 それをこの手で掬い上げてやりたかったけど、嘩月はそれを望んでいないのだ。俺は、嘩月が好きだといってくれた笑顔で答えることにした。
「…わかったよ。もう、来ない。……元気でいてくれよ」
 ほのかに赤く染まった瞳で、嘩月は俺を見つめて微笑んだ。
「ありがとう……」
 最後に、軽くふれるだけのキスを交わした。
 俺たちの密かな恋物語の終わり。
「またっ……、偶然出会って、恋に落ちるからっ……」
 震える声で、小さく呟く言葉。
 返事の変わりに、振り返らず手を振った。


 或る夏の日、俺に一通の手紙が届いた。
 真っ白い封筒にしっかりとした黒い文字。
 それはなぜか病院匂いがした。
 短く的確に、嘩月が自分で命の終焉を迎えたという知らせが書かれていた。
 嘩月は、・・・嘩月という小さくて儚い花は、咲いたまま地面に落ちてしまった。でも、大丈夫だから。
 誰かに踏まれて、消えてしまう前に、俺が拾って抱きしめてあげる。
    忘れないから
    ずっと傍にいるよ
    二度と逢うことの出来ない最愛の嘩月との再会はきっと近づいている。



FIN