月は唄う。
君と僕とのメロディーを、一つ一つ、糸を紡いでいくように……。
そして、朝は訪れる。
満月が海に反射していた。暗闇の中、その場所だけが薄明るく光を放っている。
静かな波。
浜辺に打ち寄せる音さえも耳に付かない。
そんな夜の中に、二つの影があった。
「伊藤さん…、ちょっと寒くないですかぁ?」
背が小さく、割と小柄な彼は、9月の夜の浜辺に、連れて来られていた。
「あ? それくらい我慢しろ!誰がレポートか居てやったと思ってるんだ!全く我侭だなー、楓は」
「4年は暇だ〜とか言ってたから暇潰しをあげたんですよーだ」
とても大学生と思えないほど童顔な楓は、つんっと膨れた顔を素直に表す。
「あー言えばこー言う」
溜息交じりに、楓を連れてきた張本人は呟いた。元はといえば、期限の迫ったレポートをどうにかしてくれと泣きついてきたのは楓なのだ。
サークル内で仲の良かった先輩である彼、伊藤新にお願いしたものの、代償として、こんな時間に夜の浜辺へと連れてこられてしまったようだ。
「……何するんですか? こんな夜に。……まさかっ」
ビクッと怯えた表情で一歩後ずさりをする楓に、新は不可解の笑みを浮かべた。
「そのまさか。さぁ、服を脱ぎなさい!」
「ぎゃあ〜、おかーさーんっ、俺はとうとうやばい道に入ってしまうみたいですぅ〜」
上着をぎゅっと握り締め、脱がされないようにガードしつつも、夜の海に叫んだ。
ごつんっと頭を思いっきり叩かれる。いや、むしろ殴られた、の方が正確だろう。
「痛い…」
「馬鹿者!何を勘違いしてるんだか、お前は……」
呆れた顔で、楓とは対照的な、漆黒の髪を書き上げる。その姿が月に照らされて、まるで彼の違う一面を見てしまったかのようで、一瞬目を奪われた。
「へ?……」
「何もわかってなかったんだな」
「何が?何のこと?」
本当に何もわかっていない様子でキョトンとしてる楓。
「あのな、今ここに居るのは、写真を撮るためなんだよ」
「何の?海のなら、俺はいても意味ないじゃないですか」
彼は風景の写真しか撮らないということを知っていた。だから、楓がここに居る必要はないのだ。
「そうだろ? だから、楓を撮るんだよ」
説得力のある声でニコニコをしながら上機嫌に言う新。つられてこっちまで笑顔になってしまう。
「ふーん、そうーかそーか…って、え!? 人は撮らないんじゃないんですか?」
「そう」
「そうっ…てそんな笑顔で……。支離滅裂ですよ」
もう何をいっても無駄なのは自分でもわかっていた。なんせレポートを握られていて、尚更彼は、自他ともに認める頑固で有名な人なのだから。
そもそも写真部に入ったこと、いや新に出会ってしまったこと、遡ると、この大学に入ったこと自体が楓の運命を変えることになっていたのだろう。
第一志望だった大学に見事に合格して浮かれていたオリエンテーションの日。楓は新と出会った。
楓は周りの人をも笑顔にさせるほどのにこやかな顔をしてサークルを見て回っていた。
「こんにちは」
声を掛けたのは新の方。まだ3年生だった新は、たすきを肩から下げて、新入生のサークル勧誘をやらされていた。非常に万人受けするさわやかな
笑顔で話し掛けられた楓は、この身勝手で我侭な新をいい人として認識してしまったのだ。無論、その認識もすぐ崩れ去ることになる。
「こんにちは」
「新入生、だよね? 俺、写真部の伊藤新です。どう? 写真部見てかない?」
生憎、写真なんて全く興味のなかった楓は、優しい笑顔のお兄さんに丁重に断ろうと声を出す。
「いえ、他の所とか一度色々回ってみたいんで、今は…」
はにかみながらいう楓の肩をがしっと新は掴んだ。
「あの……。い、とうさん…でしたっけ?」
新は怖いくらいに真剣な眼差しで楓を見つめていた。
「駄目だよ」
「……へ?」
ぼそっと呟いた新の言葉が謎を呼ぶ。楓は訳がわからないまま唖然としている。
「君は俺が気に入ったから入部決定」
「え? え? …そんな困ります…」
弱々しく楓はその意志を伝えても、新は全く気にしていない。それどころか、掴んだ腕を放す気はないらしく、つかつかと楓を写真部に連れて行った。
「嘘……、信じられない…」
くるっと新は振り返る。反射的にビクッと、蛇ににらまれた蛙のようになってしまった。それでも楓が何をいったところで新には無駄だとわかっているのを見て、
新は安心して終始笑顔でいた。
「あ、大事なこと聞くの忘れてた」
「……何ですか」
「名前、なんての?」
新に見えないようにこっそりと楓は溜息を吐いた。心の中で、先ほど彼のことをいい人と思ったのを思いっきり取り消して、自己中とインプットした。
「保波楓」
ぶすっと膨れた言い方をしても新たは怒らなかった。自分の気に入った人には、相手が気持ち悪く思えるくらい新は甘かった。
「そっか。いい名前だ。秋の海の波間に楓が浮かんでる感じだな。これから、よろしくな」
そして晴れて楓は写真部に入部となった。
「まだ撮るんですかー?」
上半身に濡れた白いシャツを羽織った楓が、けだるそうに呟いた。かれこれ撮り始めてから5時間が経っていて、周りはすっかり真っ暗になっていた。裸眼では
「もう少し我慢しろ。いいのが撮れそうなんだ」
そう一言だけ告げて、新はまたパシャパシャと、等身大の楓を撮り始める。
何が楽しいんだろうか。そう楓は思っていた。自分の後輩、しかも男を気合入れて撮る必要があるんだろうか。
第一、自分はモデルとして取ってもらえるほどいい被写体とも思えない。けれど、レポートの手前、新の気がすむまで使うしかなかった。
「伊藤さーん」
波打ち際でボーっとしていた楓が思い立ったように叫ぶ。
「あ?」
撮ることに集中している新はろくな返事を返してはくれない。ファインダー越しにひたすら楓を見つめている。
「何で急に人物なんて撮るわけ?」
「撮りたくなったから」
在り来たりな答えに、いまいち納得がいかない。そんなのは理由にならない。
「ふーん」と、一応言ってみるけど……。
「楓を」
付け加えられた一言。 まさかそんなことを言われるなんて思ってもいない楓は、一瞬固まってしまう。でもすぐに落ち着き払った声で返す。
「ナンパですか〜?」
新が有名なたらしだということは、この2年間で十分にわかっていた。偶然会ったときはいつも違った恋人を隣においている。それを恋人というのかどうか
はしらないが。それも男ばかり。新の事は無理矢理入部させられたにも関わらず、一番慕っていた楓だが、隣に誰かを連れているときの彼はあまり好きではなかった。
多分新の方からではなく、周りの人が新によってきて、『好みとあらば脚きりなし』という状態からそうなっているのだろうと考えは付くのだが……。
そんな彼を知っている楓からしたら、いつもの口説き文句を自分にちょっと言ってみただけとしか考えられないのも無理はない。
「……まあ、な」
「冗談はもっとかわいい子捕まえていった方がいいですよ」
笑って楓は言う。けれど、そのときの新の普段見せないような表情は、せつなくて、胸が張り裂けそうなものだった。
「い…とう…さん? どーしたの?」
「……楓が一番かわいいよ」
何気なく、でも冗談ではないと思われるその言葉に楓は返す言葉がなかった。
本当は知っていた。 遊び人といわれている新が特定の恋人を作らない理由を。
たった一人、愛している人がいるからーーーー。
それが楓だと周囲の人が言っているのを聞いてしまったのだ。新は「叶わない思いだから」と言っていた。楓はごく普通の大学生。
彼女も欲しいといっているのだから。そんな彼に男が告白したって望みは皆無だと目に見えている。だから新は、ただ傍にいることを望んだ。
その気持ちをどうしようもない、受け止めることも出来ないからこそ、楓は知らない振りをしてきた。自分でもよくわからないのだ。
好き。
それは、愛?
それとも好意?
この差は大きいはず。そのどちらなのかが、わからない。
好きには好き。
ほかの人より好き。
でもね、どんな種類のスキ?
マダ、ワカラナイヨ。ダカラ、モウスコシマッテ。
「そーでしょ? だって俺だし(笑)」
その言葉で新は、楓の気持ちを悟る。
「ただ、性格がなぁ……」
笑って文句を言った。いつもの新に戻っている。楓は失礼だとは思うけど、ほんの少し安心していた。
新の笑顔は楓を困らすものではない。
楓の気持ちが追いつくまで待っていてくれる。
月が沈みかけていた。
海面に近づく月は、反射して広範囲を強い光で照らし始める。まるで、静かな灯火を忘れないで…と言っているようでもあった。
その様子に心を奪われている楓に気付かれない様に、新は、月と楓と海の奏でるコントラストをフィルムにきざんだ。
「楓、もういいよ。撮影終了。ありがとう」
防波堤に腰をかけて、新は言った。そして右手で自分の隣においでと、ポンポンと防波堤を叩いた。
太陽が海面から光を漏らした。
その眩しさで新は目を覚ます。結局、夜中の3時に撮影が終わったにも拘らず、二人は海にいたままだった。楓が「もう少しいたい」と
言ったのだ。いくらレポートのためとはいえ、こんなに長い時間つき合わせてしまったという罪悪感にさいなまれていた新は、快くその申し出を
受けた。
「…んっ……」
小さな声がもれる。
新の肩にもたれて、楓は寝てしまったようだ。極力動かさないようにして、新は楓の寝顔を覗き込む。
かなり疲れていたようで、少々のことが起こっても起きそうになかった。
こちらまで幸せになるほどの無邪気な寝顔。
「ありがとう」
聞いているわけないけど、新はそう呟いた。
今はこうやって傍にいてくれるだけで幸せだった。
愛しい楓の髪を撫でる。潮風にさらされてもさらさらとしていた茶色の髪を。
ちょっときつい体勢だけど、楓が目覚めるまでそうしているつもり。
月に歌う朝、月が歌う朝。
それは世界一愛しいと思う存在が隣にいる朝のこと。
-FIN-