夏の空はいつもすがすがしく輝いていた。
けれど、自分の心だけが、梅雨の季節を抜け切れていなかった。
一体何が悪いのかさえも理解できず、二宮一伊は真っ白な原稿用紙を見つめ、肘を突いている。
照りつける日差しさえも自分を馬鹿にしているようで、自棄に憎たらしい。
一伊はつい先日デビューした、駆け出しの新鋭純文学作家なのである。衝撃的なデビューを華々しく飾ったのだが、
デビュー作に力を注ぎ込んでしまったのか、期待されている第一作目がうまくかけず、すでに行き詰まるとい
状況に陥ってしまったのだ。
締め切りは着実に迫って、気持ちばかりあせるのである。
まだタイトルも内容も何一つ決まってはいない。出版社からもらった名前入りの原稿用紙は、その時から一枚も
減ることを知らない。
気分転換にどこか行こうとも思うが、体が机の前から離れてくれないのだった。
挙句、一日中座っていて、口を吐いて出るのは溜息だけときている。
ガチャッと不意にドアノブの音がしたと思いきや、ドタバタと騒がしく響く足音が近づいてきた。
「……」
またか、と更に深く溜息を吐いた。
こんな風に図々しく人の家に入ってくる人間といえば、今の所たった一人しかいない。
「おっひさー!! 一伊っ」
机に向かっていた一伊を見つけるなり、長身の青年は後ろから抱きついてきた。
「由希……、離して」
由希と呼ばれた青年は、寂しそうに瞳を潤ませて、仕方なく手を離した。
「元気ないね、一伊。どうかした?」
「いや、なんでもないよ」
由希に話す事でもないと判断し、適当にあしらう。
「そ。ならいいや」
この青年は、つい半年前に一伊の家の近所に引っ越してきて、なぜか懐いてきたのである。
別に用事があるわけでもないのに、暇とあれば一伊の部屋にやってきて、本を読んだり、ごろごろしている。
とっさに一伊は由希の死角へと真っ白な原稿用紙を隠した。ただでさえプレッシャーに押しつぶされそうなのに、後押しされるのはごめんだ。
「何か用? 俺、あんまり暇じゃないから由希にかまってる場合じゃな……」
「海に行こうよ!」
早く帰ってくれとせかそうとした一伊の言葉を見事に打ち消し、由希ははっきりとそう言った。
「え?」
「海だよ海! やっぱりさー、夏って行きたくなるんだよねー。ね? 一伊」
笑顔で由希はそう告げる。夏がいかにも似合いそうな小麦色の肌をした由希を見て、自分と比べてしまう。
元々あまり外出したいと思わない一伊だったが、尚更今はそんな気分ではない。
「……由希、悪いけど、一人で行って来なよ。俺忙しいからさ」
好意で言ってくれてるとわかっているからこそ、困った笑顔で一伊は返事をした。
「えー。一人でいったって面白くもなんともないだろー?」
すぐに由希は不満を露にした。
確かにそれはそうだ、と思わず納得などしている間に、由希は一伊の手を引いて、強引に外へと連れ出した。
「ちょ…由希! 人の話し聞いてんの?」
「一伊こそ人の話聞いてんのかよ? 俺は一伊と行きたいの!」
「俺の都合は?」
「無視」
無茶苦茶な理由で、一伊は家から引きずり出されてしまった。
抜けているようで、意外としっかり物の一伊は、自分の財布だけは忘れずにしまいこんだ。
世間は夏休み中だというのに、お盆も終わってしまって、暑さも落ち着いてきたこのごろ、思ったより電車は空いていた。
本当に近場への買い物意外、家にこもりっきりの一伊は、時期的な出来事や風景を知らない。
それでも由希と出会ってからは、こうやって無理矢理どこかに連れて行かれる事もしばしばあるので、以前よりは出歩くようになった方だ。
悔しいけれど、そのたび自然や人に触れて、心が和むことも多々あった。
カタン…カタン…と一定の感覚で電車が揺れる音も気にならないほど、由希は一方的に話をしていた。
由希は、一伊自身のことは何も触れずに、ひたすら自分の身の回りの話をして、一伊はただ笑って聞いてはいたが、
頭の片隅には小説のことが引っかかって、心から笑うことは出来なかった。
「あ、もう次の駅だよ。ほら、海見える」
一時間くらい経っただろうか。由希が不意に言った。
窓の外を指差し、子供のようにはしゃぐ由希を見て笑っていたが、つられて目にした外の景色に、一伊は高揚感が生まれてくるのがわかった。
見渡す景色一面が青い空と海と砂浜。
由希がはしゃぐのもわかる気がした。光が波に反射して、宝石がちりばめられている様にも見えるのだ。
一伊は、早く電車を降りて、肉眼でこの風景を見てみたくなった。
「もうすぐ着くから」
そんな一伊のはやる気持ちを見透かしていたのか、由希はうれしそうに言った。
「そっか」
砂浜に実際に降り立ってみると、見ていたときよりも胸が高鳴る。
歩くたびにもつれつくような砂の感触、潮の匂い、全てが新鮮に思えた。
由希は一伊を置いてきぼりにして、波打ち際で走り回っていた。
自分以上のはしゃぎように思わず本当に前世は犬だったのではないかとさえ考え、自然と笑いがこみ上げてくる。
「由希! そのうち転ぶよ」
そう忠告した途端、バシャッと由希は波にさらわれ転んだ。
「一伊〜〜〜っ」
情けない声をあげ、一伊の方を見るが、一伊は笑うだけ笑って助けようとしなかった。
まるで別世界にでも来てしまったかのようで、全てに目を奪われる。
その中でたった一つだけ見知った存在。
不思議と頭の中で、小説で、自分の文章で、この風景を書いてみたいと思った。
何の変哲も泣いただの海なのに、自分の中の熱い情熱を呼び起こしてくれたのだ。由希はこうなることを予想していたのだろうか。
いや、彼は自分が煮詰まっていたことすら知らないはずだ。
一伊はただずっと砂浜に腰を下ろし、この感覚を体で感じていた。
「……一伊? もうそろそろ帰ろうよ」
「あぁ、もうそんな時間だったんだ」
由希は一伊に手を差し伸べて、立つのを助けた。
夕日が沈みかけていた。
自分たちは随分とここにいたらしい。
名残惜しげに一度海を振り返り、一伊は由希の後を追った。
「由希…」
「ん?何か言った?」
「……ありがとう。楽しかったよ」
そういうと、由希は満足そうに笑っただけで何も答えずにいた。
家に着いたらあの原稿用紙に小説を書こう。
今ならきっと書ける気がする。
この海と自分に新しい世界をくれる彼の話を……。
FIN