アイノオト 5


第五章


 貴之はコンクールのために選曲を始めていた。
 弾ける曲はたくさんあったが、相手は何しろ夏姫なのである。
 コンクールとはいえ、学内での発表会もどきなのだが、真剣にならずにはいられない。貴之の場合、人の曲は弾かずにオリジナルのみを弾いているので、まず曲を選び、一応楽譜に起こさなければならないのだった。期日があとほんの一週間しかないのは正直ちょっとつらいところだった。
「どうだ? 出来たのか?」
 物音を立てずに入ってきた父親の存在に心底驚いた。
「っあ…。いま、まだ曲を…」
 貴之が文句も言わずコンクールの件を引き受けたのが貴志はうれしいらしく、最近やけに機嫌がいい。
「そうか、私がどれがいいか選んでやろうか?」
 多分好意なのだろうと思う。
 けれど、そこまで面倒を見てもらっては、自分の力で優勝を勝ち取るとはいえなくなってしまう。それは避けたい。
 貴之は父のためにピアノを弾くわけkじゃないのだ。あくまで自分の思いのために今回ピアノを弾くことを決心したのだから。
「いや、もう教えてもらってるだけで十分だから。それに…藤堂もきっと怒るから」
「そうか…。そうだな。曲を決めたら早めに譜面を見せてくれ。それから練習表作るから」
「……はい」
 ピアノの前に座ってまた考え始める。
 ある程度、貴之は弾く曲の目星はつけていた。
(…でもあの曲を弾くことを許すだろうか……)
「−−貴之。私に恥をかかすようなことだけはやめてくれよ」
 貴志が部屋から出て行った後、深く息をついた。自分では自信のある曲でも、人に何か言われると、もろく崩れ去るような自信でしかないのだ。
 まず、弾きたい曲を弾けるかどうか、ということが貴之にとっての第一の関門なのかもしれない。


 ☆ ☆ ☆


「……どう?」
 ピアノから手を離し、貴之は横で聞いていた充に意見を求める。
 充はいつものように優しく微笑んだ。
 貴之は迷っている2曲を、どちらがよいかということを第三者であり、自分の音を誰よりも理解しているだろう彼に選んでもらおうとした。
「そうですねぇ……。僕は先輩の音なら何でも好きですけど…」
(参考にならん…)
 充のただひとつの欠点は貴之のピアノなら何でも好きだということ。
 貴之がピアノを弾いてくれさえすればいいらしい。
「ただ、先輩がいつもと同じように、自分に素直な気持ちでピアノと向き合って共演したら、優勝は間違いないですよ」
 たった一言で救われることもある。
 充が言うことは何故だか信じてみたい気になるのだ。
「素直な気持ちか…。無理そうだな」
 ははっ…と笑って言うが、已然曲が決まらない。
 笑顔も苦笑交じりになってしまう。
「先輩って素直じゃなさそうですもんね」
「お? 言うようになったな、お前も」
 エヘヘ…と充はごまかした。多分彼なりに気を使って元気付けようとしているのだろうと感じ取れる。だから本気にはとらない。
 最近は本当に落ち着いた関係を保てていた。
「でも僕は、最初のバラードのほうが聞いてて心地よかったですよ。あの曲って、昔コンクールで弾いたものですよね」
 充の記憶力には感心するしかなかった。いわれるまで貴之自身忘れていたことなのだから。
「そうだっけ……。俺もあの曲は好きなんだが…、ちょっと問題が…」
「問題?」
「……あぁ」
 充は何もわからずにいつもの笑顔で首をかしげていた。彼の笑顔は貴之にとって安心できるものだった。屈託のない笑顔を見せられると、ほっとするのだ。今はまだそれが何を意味するのかまったくわからないけれど。
「ま、とりあえず言うだけ言ってみるかな…」
 まだまだ先が思いやられる段階だったが、時間は無常にも刻一刻と過ぎていった。


☆ ☆ ☆


 ドアを開けた途端、騒がしい声が聞こえてきた。
(…まさか…)
 嫌な予感を感じて、足音を立てずに自分の部屋へ聞こうとした。しかし、時既に遅し。
「貴之ちゃ〜ん!! おかえりーっ」
 手に持っていた学生かばんを床にかたんっと落とした。
 妙にハイテンションな声が貴之に近づいてきた人物を表していた。
「た、…だいま、かあさん」
 過剰な抱擁に我が母ながら、思わず呆れてしまう貴之だった。
「あら、元気ないんじゃない?もー、男の子は元気が一番よ! 貴志さんったら、貴之ちゃんにまたピアノばっかりやらせてるのに」
 仕事の都合、たまにしか家に帰ってこない母親のスキンシップほど酷いものはない。この時とばかりに貴之に付きまとってくるのだ。
(子供じゃないんだから…。第一父さんは・…)
 親にしたら、子供はいつまでたっても子供だ、というのだろうが…。
 貴之が何とかして逃れることは出来ないものかと、周りに目配せする。
 かちゃっ…とドアノブが回り、貴之の待ちかねた身代わりが現れた。
「…何をしてるんだ、お前達」
 貴之が先ほどしたのと同じように、呆れた顔で貴志が言った。
 貴志の帰宅を見て、貴之の母は、貴之にしたのと同じく貴志に抱きついた。
「貴志さーん!お帰りなさ〜い! お夕食出来てるわよ」
 父の背中を押して、そそくさと居間へ行く二人を見送り、貴之は心からほっとした。
(勝手にしてくれ。いい年して…)
「あ、貴之ちゃん、コンクール見に行くからね」
 そんなことだろうと思ってはいた。
 多分、スケジュールを無理やりずらして、自分の息子の晴れ舞台をあの親は見るためだけに、帰って来たに違いない。
 考えれば考えるほど、余計に気は重くなるばかりだった。


☆ ☆ ☆


 予期していたことが現実に起こった。
 そう物事簡単に進む分けないと思ってはいたが、ここまで酷いとも思っていなかった。いや、むしろ予期できたことだからこそ、そうなってほしくなかった。
 今、貴之に向けられている貴志の瞳は、優しさのかけらもない。
「お前は何を考えているんだ!?」
 大切なコンクールに昔弾いた曲を持っていくなど恥ずかしくないのか、とそういっている。
(恥とかそういうことじゃない…)
「ただ、あの曲が一番弾きたいんだ!」
 自分の感情をシンクロさせて、思うが侭に弾くことの出来る曲。
 あの曲じゃなきゃ、優勝なんて出来ないとさえ思う。
「あんな、お前が小学生だったときに弾いた簡単なのを弾くなんて、気でも違ったのか?」
 もう、何を言ってもわかってくれないのかもしれない。自分がどれだけの思いでピアノを弾こうとしてるのかも、聞く耳を持たないのだ。言った自分が馬鹿だったかも知れない、とさえ感じてしまわずにいられない。
「技術を争うつもりはないから。俺は、出るからには自分の弾きたいものを弾きたいように弾くだけだ。それを誰がどう評価しようとかまわない!」
 貴志は維持でも意見を曲げようとしない貴之に、苛立ちを感じ、ピアノの鍵盤を両手で叩いた。
 一瞬、シーンとなった。
 二人はただじっと互いを睨み合っていた。
「…貴志さん。いいじゃない、何を弾こうと。貴之ちゃんは私たち二人の子供なのよ?少しは信じてあげましょう」
 見かねた母親がそっと助言する。
 貴之はこの場に母がいてくれてよかったと本当に思った。自分の力を信じていてくれることは何よりも心強いものだ。
 貴之の母はそういうところをしっかりとわきまえていてくれる。
「……」
 貴志は苦虫をつぶしたような表情をしていたが、やがて小さく息を吐く。
「−−信じてもいいのか?」
 意地っ張りは自分譲りだと自覚したのか、諦めてそう言った。
「あなたの息子ですから」
 素直にちょっとだけ微笑んだ。
 負けるわけには行かない。
 負けたくない。
 ここでまけたら、今後自分にさえ負けてしまいそうだからーー。


 もしかして、自分は必要ないのではないか。
 なぜかそんな不安が貴之を襲った。
 日々、貴志には「よく弾けるようになってきた」と頻繁に言われるようになった。それはすごくうれしかった。父であり、有名なピアニストである彼に褒められるのだ。うれしくないわけがない。
 だが、それと反対に自分が自分でなくなっていく感覚に陥るのだ。
 自分が弾いているのはもしかして貴志のコピーなんじゃないのか、と。
 そんな想いが体中取り巻いて、ピアノが自分らしく弾けなくなってきていた。
「どうだよ? 順調なのか? 明後日コンクールじゃん」
 何も知らずに城太郎は笑顔で問いかける。
「ん?……あぁ」
 気のない返事を繰り返していた。何かを考えることすら出来ないほど、自分を見失っていたのかもしれない。ただ、何も考えずに教室へ歩くことで精一杯なのだ。
 もしかしたら、昼に充に会えば、何かが変わるかもしれない、と自然に期待せずにはいられなかった。
「こんにちは」
 棘のある嫌味な声が耳に入る。
 夏姫も移動教室の帰りだったようで、偶然鉢合わせてしまった。
「…こんちは」
 嫌なやつにかかわっている暇はないのだ。
 そそくさと通り過ぎようと歩く足を速めようとした。
「結構余裕なんですね。僕なんて、先輩が相手だって思うと、寝る暇も惜しいくらいなのに」
「そうでもないよ」
「そうですかぁ〜?やっぱり天才は違うのかなって思っちゃいますけどね」
 よくまあ次々と貴之の癪に障ることを言える子だ、と城太郎は呆れた。貴之の身も大変だ。
 かわいい顔でにこやかに言われるとむかつき具合も大幅アップといった感じだろう。
「明後日、本当に楽しみにしてますよ。−−あ、そうだ。天才には限りがあって、そこにたどり着いたら所詮凡人…って言う話しありましたっけね」
「−−おまえなぁっ…」
 貴之ではなく城太郎が声を張り上げる。
「やめろって…」
 今にも殴りかかっていきそうな城太郎を貴之は腕を掴んで止めた。
 確かに夏姫が言う事は度を過ぎていて腹が立つ。でもそうじゃないことをコンクールで見せたら、夏姫だって納得するだろう。要するに、貴之自身が頑張れば言いだけなのだ。
「ごめんなさい、夏姫も結構焦ってて……」
 先に歩いていった夏姫の無礼な行為を、一緒にいた彼の親友の如月が代わりに謝って言った。
「いいよ、気にしてないし。藤堂の気持ちもわからないわけじゃないから」
 その場限りの笑顔で彼を追い払い、本日15回目のため息をつく。もしかしたら夏姫のいうとおりなのかもしれない。そう思うと再び緊張して、体が震えてくるのだ。
 後二日。明後日にはその答えが出るのだ。
 怖くない、といったら嘘になる。
 もしこれで自分が敗北者となったら、確実に自分の居場所はなくなってしまう。
 それどころか、父や母、信頼してくれている城太郎や充までもが、離れていってしまうかも知れないのだ。
 今の夏姫の言葉は、貴之に大きな動揺を与えた。
「しっかし、本当に嫌味なやつだよなぁ〜。それほどあいつにとって貴之って言う壁がでかいんだろーけど」
「ごめん城太郎…。俺、第五行って来るわ」
「え? おい、昼飯は?」
 いきなりのことに城太郎は驚いた。
「向こうで何か食べる」
 そういい終わる頃には、貴之は走って第五音楽室へと向かっていった。
 悪い方向に影響しなきゃいいけど…、と城太郎は少しだけ不安になっていた。


☆ ☆ ☆


 きょろきょろと真澄は回りを見渡していた。
 会いたいはずのお目当ての人が何故だか今日に限っていないのだ。
「なに、そわそわしてるんだよ。落ち着きないやつだな」
 今日は城太郎に会いたいわけじゃないのだ。
 いや、もちろん会いたかったのだが、今日は貴之にお願いをしようとおもって、はやる気持ちを胸に、気分よく3−Cに来たのだ。
 しかし見たところ、貴之はいない。
「せんぱーい。笹本先輩は?」
 ちぇっ…とつまらなさそうに真澄は口元を寄せる。
「あ?貴之か? 第五にいると思うけど」
 『第五』と聞いて、真澄は名前を呼ばれた犬のようにびくっと反応した。城太郎と充は、真澄がいったい何をしようと思っているのかさっぱりわからなくて、ただ、うれしそうな彼の顔を見ていた。
「俺、ちょっと行って来る!先輩のピアノ聴きたかったんだ」
「お、おいっ…、あいつ機嫌悪いかも…って、いっちまったか」
 みんなして聴く耳もたんやつらばっかりだ、と城太郎までため息をこぼした。
 ふと、じっと見つめる充の視線に気付いた。
「何だ?」
「機嫌…悪いんですか?」
 また前のような貴之に戻ってしまったのではないかと充は不安になったようだ。
「いや…そーゆーわけでもないんだがー。うーん」
 城太郎自身もどういっていいのかわからなくて、きれいな返答をすることが出来なかった。

 防音設備の整った第五音楽室に着いた真澄はルンルン気分でドアを開ける。
「笹本せんぱーいっ」
 真澄が元気よく中に入ると、初めて聴くメロディーが部屋中に響いていた。
「……すごい」
 ピアノの経験がまったくない真澄でもわかるくらい、貴之のピアノはプロのものに近かった。
 まるで彼自身がメロディーのように感じて、とても人間っぽい音。
 充が貴之のピアノを好きだといったわけを実感した。
 ポロンッ…と最後の一音がこぼれた。
 そうして一曲終わっても貴之はまた最初から同じ曲を弾こうと指を構える。もしかして自分が入ってきたことに気付いていないのでは、と真澄は思って、弾き始める前に声を掛けた。
「先輩っ、こんにちわ」
 一瞬びくっ…と怯えた表情をしたが、相手が真澄だとわかると、大分見慣れた笑みを浮かべた。
「どうした? 城太郎、教室にいなかったのか?」
「いえ、そうじゃなくて、今日は笹本先輩のピアノ聴きにきたんです」
 笑顔で話す真澄を見て、貴之はちょっとだけほっとした。真澄には自分のピアノが認めてもらえたということを表している。
 真澄はふと貴之の指先を見た。
「…先輩……」
「ん?」
 真澄の表情に雲がかかる。
「指、…血が滲んでませんか?」
 ほんのりと赤くなっている指先から目が離せない。
「もしかして…。ずっとひいてたんですか!?」 
 心底貴之のことを心配していた。
 この指で弾いてて痛くないわけないのだ。
 それを何事もなかったように完璧な曲を弾くなんて信じられなかった。
「平気だから…」
 貴之は、真澄を安心させるためにそう言ったわけじゃなかった。彼の中の何かが壊れて、痛みさせも感じないほどだったのだ。
「そ……そうですか…。あ、邪魔してごめんなさい」
「いや、そんなことないよ」
 貴之が笑うたびに真澄は怖くなっていった。
(…変だ。いつもの先輩じゃない…)
 片手でドアを閉めた。
 中からはまた微かにピアノの振動が伝わってきた。
「…充っ、…充に知らせなくっちゃ」
 真澄は大急ぎで3年の教室へと向かった。体裁なんて気にしていられない。そんなことはどうでもいい。ただ、貴之をこのままにしておいてはいけないと直感したのだった。
 いつもならぐうたら歩いていくこの長い廊下を、彼は全速力で走りぬけた。
 3−Cに城太郎の影を見つけた。
「南先輩! 充は!?」
 半泣きでぐちゃぐちゃの顔で、息を切らしている真澄を見て、瞬時に何かあったと悟った。
「トイレに行くって…」
「わかりましたっ…」
「ちょっと待て! お前らだけで平気か!?」
 すぐさま走っていこうとする真澄の腕をぎゅっと掴んで聞いた。
「う〜っ、わかんない……」
 泣くのを我慢しているせいで、真っ赤になった瞳で城太郎を見て、腕を振り払った。城太郎にも話したいのだが、とりあえずは充が先だと判断し、駆け出した。
(トイレーっ、何でこんなときにトイレなんか行ってるんだよぉ〜)
 あまり持久走は得意ではない真澄は、急がなきゃとは思いつつもだんだんとスピードが落ちてくる。
「充ーー!!いるかぁ〜?」
 トイレのドアをばんっと開けて、お構いなしで大声を上げる。
「…っなんだよ!恥ずかしいなぁ〜」
 気の抜けた声を聞いて、真澄は安堵感を得た。思わず真澄は顔を赤く染めた充に抱きついてしまった。
 全身の力が抜けたようにへたばってしまう。
「なっ…泣いてるの? 真澄…。どーした?」
 真澄の様子がいつもと違うのに気付いて、ぽんぽんっ・・・と背中を叩く。
「み…つる。第五に行って…。笹本先輩の様子が…」
 息を整えながら、たどたどしく言う言葉は、非常に聞きずらかった。
「え? なに?第五って」
「先輩が…変なんだよぉっ…」



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