アイノオト 3
第三章 「はぁぁ〜〜…」 これ見よがしに大きく深いため息を吐く。 「嫌味なやつだな〜、お前……。まぁ、わかってたけど」 笑いながら貴之の頭をぽんっとたたいて、城太郎が言った。こっちが迷惑がっているのなんてお構いなしだ。気にも留めていないだろう。 さっきの廊下での会話の後、ちょっとだけうれしい気持ちになったことは言ってなかった。 (言ったら付け上がるだけだ…。−−それにしても…) 貴之はクラスメイトたちの楽しそうな顔を、思い切りつまらなそうに見ていた。 「なぁ、城太郎。…お前、俺と話してて楽しいか?…って、んなわけないか。いや、なんでもない」 ぼそぼそと呟いて、やっぱり周囲を見る貴之。 「はぁ〜? どーしちゃったの、お前」 さすがの城太郎にも彼の言葉と行動の真意がわからない。 大体、貴之が「周囲を見る」ということだけでも普通ではないのだ。自分と関係のないものには、まったくといっていいほど興味を示すような人間ではないのだから。 貴之は一通り見渡して、最後に城太郎の顔を見る。 そしてまた大きなため息。 「−−何なんだよ」 貴之にしてみたら、クラスメイトの行動が不思議で仕方ないのだ。 何故、そんなにも毎日楽しそうなのか、と。 毎日毎日あってる人物に、そんなに次から次へと話すことがあるのか。昨日のテレビの話題、部活に、恋人の話。 彼らの笑顔からは自分が抱えているような悩みを持つ人は見受けられない。 「みんな、幸せそうに話してるよな」 多少なりとも、そんなクラスメイトを見てるとこっちも幸せな気分になれるような気がする。 「幸せなんだろ? 実際。俺もあいつらも、−お前も」 (俺も?) 城太郎は貴之のことも『幸せ』なんだと言った。でも自分はそう思えない。 「−−−俺は・…」 小さな声で、城太郎にさえ聞こえないぐらいの声で呟いた。 「あ! きたな〜、あいつら」 廊下に面するガラス窓から、小さな二人が走ってくるのを城太郎は見逃さなかった。城太郎の目線を追うと、片桐真澄と相川充がいる。 二人が途中、美人な風紀委員長に『廊下は走ってもいいが、人にぶつかるなー!』と怒鳴られていたのを聞いて、思わず貴之と城太郎は噴出してしまった。 怒鳴られた二人にとっては「なんておーぼーなっ!」といった感じだろうが。 「あ、笹本先輩、お元気ですか? 南先輩も」 乱れた息を整えながら、真澄が窓越しに声を掛けた。 「も…って、俺はおまけかっつーの!」 「ちっ…違いますよ! ほら、ね、先に笹本先輩って言っちゃったから、言葉のあやで…」 「本当か〜? 焦ってるところが怪しい……。まぁ、いいけどさ」 なんだかんだ言っても、見た感じすごく仲がよさそうに見える二人だった。 「あ、あの……」 横のほうからぼそっと呟く声があった。元気のいい真澄とは対照的で、ちょっとか細くて弱い声。 貴之は声の主のほうをチラッと見た。 「何? お前がこいつに俺の居場所ばらしたんだって?」 ちょっとだけ皮肉を込めていってみた。その言葉にびくぅっ…と怯えた顔をして、充は泣きそうになる。 (げ、……ヤバイ) 「や、別に、気にしてないけど…」 ここで泣かれると圧倒的に自分が悪くなる。それを避けるために、小さな声でフォローしてみるけれど…。 「っ…ごめんなさいっ! つい、前にあそこにいたことを思い出しちゃって、南先輩が困ってたから…。許してくださいっ…」 涙ながらの大声で言った彼は、それだけではなく、窓越しに貴之の背中にぎゅうぅっと抱きついたのだった。言ってしまえば、それほどに貴之の怒りが怖かったということだろう。 貴之にしたら、皮肉など言うものじゃないとわかった瞬間だった。 「…怒ってないから、その…、離れてくれないか? 人の目が…」 充の大声で何があったものかと、クラスメイトが見ていたのだ。そうしたら城太郎以外は受け付けなかった貴之に、一年生が抱きついていたのだ(一方的だけれど)。これは驚かないわけがなかろう。楽しそうに話してた彼らの目がすべてこちらを見ていて、さらに、まさしく目が点という状態だった。クラスメイトだけならず、城太郎までもが見るに絶えない顔だったのだ。 「あ、ごめんなさいっ、つい…」 多分何の悪気もないのだろう、ということは見てわかるのだが、貴之はあまり人に触れられるのは好きじゃないのだ。 「いや、いいよ」 なるべく柔らかく充に言った。吐き気がするほどでもなかったからよかったが。真澄だけはニコニコとして充の隣で微笑んでいたのだった。 「笹本先輩、怒ってないです?」 「ん? あぁ」 きちんと会話をしたのは今日が初めてなのに、随分と普通に話す。大抵の人は、貴之を目の前にしたら緊張してギクシャクして会話など出来るものではないのだ。平然としていたのは、今までにも城太郎くらいしかいなかったのに、どうやら充もその類らしい。 「じゃあ、聞いてもいいですか?」 「なに?」 淡白に返答する。ニコニコとしてやる義理は貴之にはない。 「−−…ピアノは、好きなんですか?」 いきなり振られた話題についていけなかった。第五音楽室にいたということで、ピアノをやってる人間だとはわかるだろう。貴之も、ちらっと弾いているのを聞かれていたのだ。だが、すきかどうかなんて、充に言われる筋合いなどはまったくといってないのだ。 「何でお前にそんなこといわれなきゃいけないんだ? 答えなきゃ、駄目か?」 冷たく言い放った、かも知れない。 でも彼は、貴之の触れてはほしくない核の部分に触れてしまったのだ。 「…いえ、そ、んなことないです、けど……」 「おい、貴之、言いすぎだろ…」 見かねた城太郎が横から口を出す。いつもなら貴之にも考えるところがあっての行動だろう、と思って口を挟まないのだが、それが出来なかった。 明らかに貴之は不快に思っていた。冷静な彼が恐ろしいほど、憎しみのある顔をしていたのだ。だから横から口を挟まずにいられなかった。 「僕はただ、笹本先輩のピアノを聞いて、すごいきれいだなぁ…って思ったんですけど…。でも、好きで弾いてるのかなぁってきになっちゃって」 言ってはいけないことを言うように、小さな声で充は呟いた。 けれど、泣きそうな彼を気遣えるほど、今の貴之は冷静ではなかった。 「……きだよ」 「え?」 「好きだっつってんだろ!? けどなぁ、好きだけじゃ、どうにもならないことだってあるんだよ!」 「…でも、僕、先輩のピアノ、好きです」 静かに、けど意思を持った瞳ではっきりと充はそう言った。 「−−帰ってくれ…」 貴之には、それが一番優しいと思われる充への言葉だった。 これ以上彼といると絶対に酷いことを言うに違いない。そう思ったから、突き放したことがベストなのだ。 そんな二人の隣で、不安そうに真澄が城太郎のブレザーの裾をぎゅっと掴みながら見ていた。 貴之も自分が冷たい態度をとっているということはわかっている。でもどうしようもないのだ。そう突き放して、目を逸らすことしか出来ない。 「わ、…かりました。また、きます」 とぼとぼと一年生の教室へと戻る。 「あ、まって…。南先輩、また後で」 「おう」 早足で真澄は充のところまで歩いていった。 「お前、本当におかしいぞ」 ぼそっと呟いた城太郎の言葉が痛かった。 貴之にはコンプレックスがあった。 自分は城太郎や真澄のような、太陽みたいな明るさがないということ。何を考えても先のことを予測して、失敗することばかりに目が行ってしまって、前に進めない。駄目だ、と押さえつけられてしまったら、反抗することもままならない。 ☆ ☆ ☆ 「大丈夫か?」 真澄が不安そうに充の顔を覗き込んだ。 あの後、充は何度となく貴之のいるところに足を運んだ。自分にとって、どのくらい貴之のピアノが大切かわかってほしかったのだ。 だが、行く度に冷たい言葉を投げつけられて終わりだった。 慣れてきたとはいえ、今日言われたことは酷かった。さすがに我慢の限界を超えて、泣きながら帰ってきた。 「しかし、酷いよな…。『お前がいなきゃ、俺はこんなに悩むことはない。迷惑だ』なんて…。南先輩ならあんな事言わないのに…。何であんな人と仲いんだろ。あーむかつく」 ひどいことを言われても気にしてなかった充を見て、真澄もどこか安心してるところがあった。けれど、ついに泣いてしまった充に、今まで溜まりに溜まっていた怒りが爆発した。 充は手の甲で涙を拭きながら、真澄の頭を軽く叩いた。 「いてっ…」 「う〜、先輩のこと悪く言わないで……」 真っ赤になったウサギの目で真澄をにらんだ。 「充って、本当にいいやつだよな。けど、俺はお前をいじめるやつは嫌いだ」 自分は間違っていない、と確信を持っているからこそはっきりいえる。 どう考えても悪いのは貴之なのだ。 「でも、俺がしつこいから…」 「それは、一理ある。いい加減行くのやめろよ」 真澄としては充のためを思っていってあげてるのに、まったく充は言うことを聞こうとしない。 今もまた返事を返さないのだ。 「大体さぁ〜なんでそんなに笹本先輩にこだわるわけ?」 ちょっとだけ泣き止んで、充は真澄をじっと見る。周囲のクラスメートたちは、クラスでマスコット的な存在の彼らが、なにやら怪しげな雰囲気をかもし出しているのを見て、小声で「ゆり?」 などと囁きあっていた。 「笑わない?」 「うん」 訝しげな瞳で「信じられない」という目線を真澄に送った。 「本当に?」 「しつこいなぁ…。俺がそんな人に見えるわけ? いーから早く」 まだ納得の行かない様子の充だが、渋々と口を開いた。真澄の耳に顔を近づけて、本当に小さな声でごにょごにょと話し出した。 「は?」 「だから…。もうっ、しっかり聞いててよ! 恥ずかしいんだから」 顔を真っ赤に染めながら充は聞き取ってくれなかった真澄を叩いた。 叩かれたにもかかわらず、珍しいことに真澄は無反応だった。 「聞こえた……」 「そう、ならよかった! じゃあ何でそんな変な顔してんの?」 先ほどとは逆で今度は真澄が充の顔をじっと見る。 充は泣きはらした瞳のまま、照れた表情をしていた。 「俺の聞き間違いであってほしいんだけどさ、今、笹本先輩のこと、ずっと昔から憧れてた…っていった?」 秘密を真澄に打ち明けてしまったことに気がとられていた充は、その真澄の言葉に驚いていた。 「うん。ずっと昔から。僕は笹本先輩に憧れてたんだ。だから、こんな近くにあの人がいるのに、あきらめるなんて出来ないよ…」 「…み、つる?」 そう言った充がいつものお子様には見えなくて、一瞬目を疑った真澄だった。 「よしっ! 明日も先輩のところ行くぞ」 両手でコブシを握り、気合を入れている充を見て、真澄は呆れた顔になるしかなかった。 どうやら充を止めるのは無理そうである。 ☆ ☆ ☆ ポロン…と小さく音を出す。 一つ一つの単純な音が連なり、重なることで聞いたこともないような美しいメロディーを描く。 誰もいない笹本家の中に、貴之の愛する音が響く。 父親の貴志のいるところでは、彼は彼の弾きたい音が出せない。父は世間体のために貴之を自分のジュニアだということを見せ付けたいのだ。自由に、好きなように弾きたいと思っている貴之とは明らかに意見が合わない。 (だから、親父のいるときには極力弾きたくない) そうなると、彼が出張に行っている今日のような時に思う存分楽しむしかない。 今の貴之は他人から見ても楽しそうな顔をしていた。もし彼が学校でもこんな表情をしていたら、周りには人が絶えることはないのではないだろうか。それは、ありえないことだろうが。しかし、それくらい豊かで柔らかい雰囲気をかもし出していたのだ。 「あ!」 貴之はピアノを弾きながら、いつもの定位置を見ると、やっぱり彼はいた。 貴之が弾いているときだけ、窓の外でこっちを見ている彼。なぜか、彼がそこにいるだけで、自分のピアノを認められているような気持ちになる。 それが、気味悪いものだったのに、彼なら…といつの間にか心地よいものへと変化していた。彼がいることで安心を得ることが可能にさえなったのだ。 (……誰なんだろう) 最近貴之は『彼』についてよく考える。 唯一、貴之の存在を認めてもらっている気になっていたから、その彼がとても気になるのだ。窓に映るシルエットを眺めながら、どんな人間がそこにいるのか、と思う。 シルエットから少年の像が伺える。背が小さくて、どこかそわそわとして落ち着かないようにしてたのを見たことがあるから。 (……) ピアノの椅子から離れ、貴之は静かに『彼』のいる窓へと近づいた。 彼は近づいてくる貴之に気がついて、身を竦ませた。まさかこっちへくるとは思っていなかったようだ。 でも貴之止まらない。 自分をこんな気持ちにした少年を見てみたかった。 そして一言伝えたいのだ。 窓に手を掛ける貴之。 時間が異様に長く感じ、胸の鼓動が高まっていく…。 かちゃっ…と窓を押し開けて、そこにいた『彼』を見る。 「……こんばんわ」 恐る恐る彼は声を出した。 とても頼りなさそうな、聞き飽きるほどに最近聞いていた声の持ち主。 「あ……、お前…」 そう、ただ伝えたいことがあった。 たった一言「ありがとう、救われた」とーーー。 |