アイノオト 2

 第二章


 ピアノは好きだけじゃダメなんだろうか。
 そんな考えが貴之の心全てを支配していた。別にプロになりたいわけじゃない。好きなときに好きな曲を、好きなだけ弾ければいい。趣味の範囲で構わないのに、そうは行かないらしい。
 自宅でピアノを弾くことが苦痛になるなんて信じられない話だ。
 放課後見つけた夏姫の楽譜を思い出していた。一介の高校生が、あんなに澄んだ心地よいメロディーを作れるなんて、すごいことだった。
 静かに深呼吸をし、夏姫の書いた楽譜を実際に弾いてみた。
(…ここはもう少し音を重ねて、厚みを出したほうがいいと思うんだけどな…)
 これはこれで綺麗なのだが、貴之にしたら少し物足りない。遊びの部分を付け加えたいと感じた。
「ちょっとだけ、いじってみるか……」
 誰も側にいないことを慎重に注意して、頭の中にある夏姫の楽譜を手直しする。ほんの少しだけ明るめにして、彼の曲を弾く。ポップ感が曲の新しい魅力を引き出していた。
(いいな、この曲。すごく楽しくひける)
 鍵盤に指を踊らせる貴之の表情は、いつものものとは打って変わって、とても生き生きとしていた。こんな彼の顔は決して人には見せないが。
「あ……、まただ…」
 ふと目をやった窓の外に、この前と同じ人影が映る。いつのまにか立ち止まってきいていたようだ。
「…今日は、大目に見てやるか」
 窓の外で聴いている人は貴之の音を、天才ピアニスト笹本貴志の音と勘違いしているのだろうけど、そんなことはどうでもよくなっていた。
 誰でもいい。音に託した自分の想いを聞いてもらえることがうれしいことなのだと、貴之は今、初めて気付いた。
 とにかく自分の音を奏でるのにすべての思いをかけていた。
「貴之! なんだその変な曲は!?」
 いきなり後方から入ってきた大きな声に音をプツリと止めた。
「…父さん? 驚かすなよ、びっくりしただろ…」
 明らかに貴志は不快な顔をしていた。途中で中断された貴之も気持ちのいいものではなかったが、それよりも、父の表情が嫌だった。
「それは…藤堂君の作曲したものだな。…いや、むしろメロディーラインだけ彼の作ったものか。なぜそんなアレンジを付け加えるんだ? 彼の音は完成されたものなんだぞ?」
 わざわざ美しいメロディーを壊すな。そう言っていた。
 ただ弾いてみただけなのに、何でそんなことまで言われなくてはならないのだろうか。貴之は貴志ではないのに。
「完成されたものは藤堂が弾くんだから、別にどうやってもいいじゃないか」
「それがピアノに対する侮辱なんだ! もっときちんと弾きなさい。生半可な気持ちでピアノに触れるのはよしなさい」
(誰が、生半可な気持ちだって…? ふざけんな)
 さすがの貴之も自分のピアノを否定されることは何よりも腹立たしいことだった。
 彼の中で何かが切れた。
「俺は、あなたじゃない、俺なんだ。ピアニストになろうなんて、これっぽっちも考えてないんだから好きなように弾くのは当然だろ? 父さんのピアノは譜面どおりでただの音だ! ピアノに、その曲に対する想いが欠けてるんだ」
「……勝手にしなさい。けれど、プロにはなってもらうぞ」
 息子にそんな風に思われたのが、多少はショックだったのか。あっさりと貴志は部屋を出て行った。
 父が嫌いなんじゃないけど、自分は自分だということをわかってほしかったのだ。同じ人間じゃないんだから、同じこととは出来ないし、同じことをしてもまったく意味がない。
 深く、深く息をこぼす。
 どこも安心なんて出来ない。安らぐことは出来ないのか? してはいけないのだろうか……。もう何もかもがごちゃ混ぜでどうしようもなくなってしまう。
 窓の外にはさっきの人影がまだあった。
 聞こえていただろうか。
 でも、彼は何も言わず立っている。こちらが弾くのを待っているようにも思えた。
(もう一曲だけ弾いていこう)
 貴之の一番好きな曲。タイトルなどまだないけれど、貴之の心を包み込んでくれるようなやさしくて柔らかいバラード。嫌なことを消してくれる、癒しの曲をそっと奏でていった。
 人物は貴之が部屋の電気を消すまで、そこに立っていた。


 ☆ ☆ ☆


(…どうかしてるのか?)
 最近のお前はおかしい、とお節介な城太郎に言われ、そのまま逃げるようにして、第5音楽室にやってきた。
 あのまま、ずっと教室になどいたら、間違いなく深いところまで理由を聞かれるだろう。ちょっとそれは避けたい事態だった。城太郎にとやかく言われないのなら、授業の一つや二つサボるなんて気にしたものじゃない。
 とりあえず、彼からは逃げたかった。
 城太郎の瞳は、まっすぐすぎて痛いから……。
 自分みたいな人に太陽のような城太郎はもったいないと思う。感情を表に出せない自分は、助けてもらう資格なんてないのだ。
 あの日、父に「ピアノに触れるな」と言われた日から、ピアノを弾く気が起きなかった。自分が弾こうと思うのは、父が留守のときのみだった。しかも、自分が弾くときには、調べたかのように、窓の外には人影があった。最近では慣れてしまって気にすることもなくなってしまったけれど。
 カチャン…とドアノブに手を掛ける音がした。ピアノを弾いていない無音の状態の音楽室では、小さな音も響く。
 はっとドアのほうを振り向く貴之。夏姫が訪れてからというもの、小さな音にでも緊張を隠せなくなってしまう。そのドアの向こうからやってくる人物が、自分にとって敵なのか味方なのか……。
「あ、やっぱりここにいた」
 微かな隙間からのぞいたのは、見慣れた顔の彼。
「…なんだ、城太郎か…。誰かと思ったじゃないか」
 明らかに安堵の表情を浮かべる貴之に、城太郎は違和感を感じるのだ。貴之は人にわかるように自分の表情を表さないのが普通なのだった。それは多分、人に自分の心の中まで踏み込まれたくない、という意思表示だということも知っていた。その彼が、こんなにもはっきりと表情を表すなんて、何かあったんだろうとしか考えられない。
「何だ、じゃないだろ? 授業出ろよ、サボり魔め」
「お前に言われたくないな。部活にかっこつけて何かとサボってんのはそっちだろ?」
 実に的を得たことを言われ、城太郎はそのままの体勢で固まった。
「…うっ。そ、それは、別問題だっ!」
「同じだ」
 まったく反論できない城太郎は、この話題は避け、ここに来た目的の話を持ち出そうと決めた。
「なぁ、…お前さぁ、なんかあったの?」
 真剣な眼差しで城太郎は言うが、反応がまったくよろしくない。むしろ口は悪いが『シカト』している状態に近しいようだ。
 思わず貴之の胸倉をつかんで、顔を自分のほうに向けさせる。
「……何かって、何だよ」
 ぼそっと呟いた彼の言葉に、城太郎は抑えていた感情があふれ出した。
「−お前なぁ、それは俺が聞いてんだろ!? いい加減にしろよ! 俺だけならお前の心配はいくらでもしてやる! 迷惑でもなんでもないからな。だけど、相川や片桐にまで無駄に心配掛けるな。もっと考えて行動しろよ」
 あまりにもすごい勢いで言ったので、城太郎は息を切らして、はぁはぁ・・・と呼吸を早める。
 いつもなんだかんだ言って自分に意見する彼が、こんなにも真剣に話したのは初めてで、当の貴之もかなり驚いていた。
「ちょっとま、て、片桐ってのはお前の部活に入ったやつだよな。その…相川って誰だ? そんな知らんやつに心配される覚えはないんだが…」
 聞いたことのない名前を出されても困るのだ。知らない誰かが、どこかで自分を見ていて自分のことを心配しているなんて言ってももってのほかだ。
 貴之とは反対に城太郎のほうがびっくりしていた。
「知らんやつって。相川充だろ? なにふざけてんだよ」
 信じられない、という顔で言う城太郎。
 そんな顔されたって本当に知らないものは知らなかった。初めて言われた名前にこれ以外の反応は出来なかった。
「だから、そんなやつ知らないっていってるだろ?」
 何度聞いても名前に聞き覚えはないし、顔も思いつかない。
「本当に知らないのか? 片桐と、部活勧誘日、一緒にいた一人だよ。−わかった?」
 貴之は頭の中で部活勧誘日までトリップする。
(……そういえば、そんなのがいたようないないような・・・)
 第五音楽室、すなわち、ここにいたときに、夏姫の後で入ってきた小さいやつだろうとやっと理解する。
「あぁ…。わかったけど……。何で相川…っていうのが俺の心配なんかしてんだよ。大体ここで一回あったくらいなんだぞ? まぁ、片桐はお前が言ったんだろうな」
「片桐も俺じゃないよ。俺は何も言ってないし。けどさ、休み時間とか二人でよく来て『笹本先輩は最近元気ですか?』って意味ありげに言ってくんだけど。それに、今ここにいること、相川が俺に教えてくれたんだから」
 不思議で仕方ない。
 二回しかあったことのない充が、なぜ自分の居場所まで知っているのだろうか。むしろちょっと気持ち悪い。充に見られていたということなのか。いや、この前あったから、偶然またそこにいるかもと思っただけだ。
 そう思いたかった。
「まぁ、何はともあれ、次は授業出るぞ」
 じろっと有無を言わさぬ口調で語られる。
 こういうときの城太郎にはさからわないほうがいい、と貴之はわかっていた。
 中学から側にいて(一方的にいられて)ほかならぬ城太郎のことなら、ほかの人よりも詳しい。無口でぶっきらぼうな会話をする彼は、かなり内心怒っているのだ。それに逆らおうなどと考えると、無理やりに引きずってでも教室に連れて行かれるに違いない。仕方なく、教室に戻ろうとピアノのいすから立ち上がる。
 先に廊下を歩く城太郎の一メートルくらい後をとぼとぼと歩く。
「…ぶっ」
 下を向いて歩いていたので何かに貴之はぶつかってしまったらしい。それが城太郎だということはすぐにわかった。
「痛いだろ!急に立ち止まるな!!」
 ぶつかった彼の背中を思いっきり殴る。
「っつ…。ーー俺、頼りにならないかもしれないけどさ、何かあったら相談してくれよ。お前はどう思ってるか知らない。でも俺は、お前の親友だと思うし、本当の意味でもそうなりたいと思ってるから」
 恥ずかしいことを平気で言う。そんな風に思った。貴之の動きもすっかり固まってしまった。そう思っているだろうことは、なんとなく知っていた。しかし、改めて言われると、どうしていいものやら。
「…あ。うん。そうさせてもらうよ。……ありがとう」
 言っている本人はどうであれ、言われるほうもかなり恥ずかしいんだぞ、と貴之は心で呟いた。
 最後に一発だけ渾身の力を込めて、城太郎の背中を殴った。
「いたっ…、さっきからお前はっ!」
 振り向いて怒る城太郎の顔は、今まで見た中で、一番かっこ悪かった。耳まで真っ赤だったのだ。
 信じられない光景に思わず笑いがこみ上げてくる貴之だった。