アイノオト 1
ただ、音を奏でていたいだけ 何を思ってとか、誰のためとかじゃなくて。 自分の指で、自分の心からのメロディーを紡いで、一つのものを作り上げている。それだけでいいと思っていた。 そのメロディーが、自分の心のまま、冷たく突き刺さるような音だったとしても……。 第一章 聞き慣れないメロディーが夜の闇に溶けていく。大きな屋敷のある角部屋で一人の少年が、高級なグランドピアノに指を躍らせていた。 彼は無表情で、まるで指だけが生きているかのように、ピアノの鍵盤を機械的に押していた。楽譜はなく、彼は、彼の心から生まれ出る感情を奏でていた。 ドアをノックする音と共に、四十代くらいの男性が彼の部屋へと入ってくる。 「貴之。夕飯は食べないのか?」 彼は、ピアノを弾いていた自分の息子、笹本貴之にそう告げる。 低い声で、見る人を必ず振り返らせるその容姿は、息子の貴之にもしっかりと受け継がれている。 貴之にとってはそれが嫌なんだろうが。 「いらない。まだ弾きたいから」 父、貴志のほうは、チラリとも見ずにそう答えた。 「そうか……。でもピアノっていうのは無理してやるもんじゃないんだぞ。…一応冷蔵庫に入れておくから」 それだけ言うと、貴志は静かに部屋を出て行く。 ため息を深く付いた。 「ピアノは無理してやるもんじゃない……か」 安心させるつもりで貴志は言ったのだろうか、貴之にとっては逆効果だ。 天才ピアニスト、笹本貴志の息子であることは、重荷でしかないのだ。小さい頃から毎日ピアノを弾かされてきて、今や、天才ピアニストジュニアと呼ばれるようになった。 けれど、別にピアニストになりたいわけではないのだ。ただ貴之はピアノを弾くことが好きなだけだった。だから、ほんの些細な反抗として、貴之はオリジナル曲しか弾かないし、コンクールにも出ない。誰が何を言っても、貴之は「自分の曲しか弾かない」と心に決めていた。 窓から漏れる月明かりを見つめながら、何も考えずにピアノの前に座っていた。 月が真上に位置する頃、貴之はまたピアノを弾き始めた。 静かに流れるような曲。けれど、その中には言葉では表現できない感情の渦がうごめいているのだ。多分、貴之以外の誰もわからないだろうけど。 この場所でしか心をさらけ出すことが出来ないのが現状である。 無心でピアノを引き続ける。 不意に窓のほうを見ると人影が映っていた。 (…え?誰だ?) その人影は多分、貴之のほうをじっと見ていた。ピアノのほうに向かって窓のすぐ側に立っている形だ。通りすがりに聞こえたピアノの音にふと足を止めて、そのまま聞き入ってしまっているのかもしれない。 (気持ち悪い……) 両手でピアノの鍵盤を打ちつけて蓋を閉め、急いで自分の部屋へと戻っていく。 (なんなんだよ、あいつ……。親父のファンか?) 長い階段を上がり、自分の部屋へとついたときには、かなり息が上がっていた。人にじっと見られるということがこんなに怖いなんて思わなかった。 自分を見ないで。 ピアノの音を聞かないで。 心の中を覗かれてるみたいで、どうしていいのかわからなくなるから……。 誰かとかかわりにあるのは嫌なんだ。 自分がわからなくなってしまうのが怖い。 怯える小動物のように両耳を手で塞いで、ベッドの上で小さく丸まる。 人と接することで、他人や自分を傷つけてしまいそうだ。だから、極力一人でいることにしていた。そんな貴之だから、彼のこんな姿を知る人は誰もいない。 ただ、誰かに助けを求めていることに彼自身も気付いてはいなかった。 ☆ ☆ ☆ 春。 煉央学園高等部では、新入生を囲んで部活の勧誘をしていた。胸元に桃色のさくらの花をイメージさせる造花を付けた新一年生が、上級生の波の中でちらほらと見受けられる。 「なぁ、貴之さぁ、また部活は入らないわけ?」 人ごみから3メートルぐらい離れた木の影で、貴之は立っていた。本来ならば一人でのんびりしたかったものだが、学校ではそうも行かないのだ。一応集団生活をしているという自覚は持っているので、渋々ながらも学校行事には参加している。ただ、一人でいるほうが多いのだが……。 今日の部活勧誘も一人で本を読もうと考えていた所だったが、貴之いわく『煩いやつ』に見つかってしまったのだ。 「あぁ、俺があんな輪の中に入れると思うのか?」 否、と答えざるを得ない方法で貴之は返す。 彼は返す言葉がなく、貴之の顔をジーと睨み付けるしか出来なかった。 「……そうだけどさぁ」 「大体、何でお前はいっつも俺に付きまとってるわけ?」 一人でいたい、そう貴之は思うのに、それがならないのは、彼、南 城太郎が何かというと付きまとってくるせいだった。中等部のときに同じクラスになり、一人でいる貴之を放って置けなくて、なんとなく側にいるようになって今に至るのだ。 どうして彼みたいな人が自分の側にいるのだろうか。いかにも明るく、人に囲まれているのがしょうにあっている人物なのに、自分みたいな一人でいるのが好きな人に、嫌がられるのを覚悟して近づいてくるのか。貴之には不思議で仕方ない。それと同時に自分と違う部分を見せ付けられてるようなきがして、自分が惨めになる。 「あ、新入生見〜つけた!」 たたた……っと新入生争奪戦の中から逃げてきた新入生二人を見つけて、城太郎は自分の部活の勧誘に向かっていく。 「おいっ……、無理だって…」 やっと戦争(といえよう)の中から出てきた子ウサギに、さらに勧誘しても無駄だと貴之は思い、木の影から動かずに城太郎を見ていた。 (お手並み拝見、といこうか……) 城太郎は割りと小柄な男子生徒二人を捕まえる。二人の挙動不審さから、高校からの外部受験だとわかった。 「こんにちわ」 背の高い城太郎は、二人の新入生の前に立ち、覗き込むように腰を屈め、人好きのする笑顔で話しかける。その笑顔に一応安心したらしく、新入生もはにかんだような微笑を返す。 見た感じでは片方は、ほんわかしてて、色んな部活に誘われてそうだ。ただ、背の小さいほうは緊張しているのか、それとも人見知りするたちなのかはわからないが、下のほうからキッと城太郎を睨み付けていた。城太郎にとってもそれは珍しく、ちょっと驚いた表情になっていた。 「俺、演劇部なんだけど、……興味ない?」 めげずに城太郎は二人に話しかけた。 「あっ、あります!!俺、演劇ちょっとしかやってないけど、でも入りたくて…」 かぁぁっ…と、顔を真っ赤にして、さっきまで睨んでいた子が城太郎の腕をぎゅっとつかんだ。割と女顔のかわいい子は、演劇部にゲットできたらしい。 「君、名前は?」 「片桐真澄です!どうぞよろしくお願いしますっ」 「真澄ね、…俺は、南城太郎です。よろしくね」 なにやら二人で話を進めて、部室に行こうと決めたらしく、城太郎と新入生二人は、木の影にいる貴之のほうに楽しそうにやってくる。 「一人ゲットしたぜー!すごいだろ!?」 自慢げに城太郎は、演劇部に入部が決定したほうのこの頭に手を乗せて、ぐしゃぐしゃ〜と撫で回していた。 「良かったじゃないか、さすが口うまいな」 「そうかぁ〜?そうでもないけどなぁ……。まぁいいや。俺、こいつ連れて部室戻るわ」 正直、貴之にとっては、さっさと行ってくれ、という感じだったのでよかったというしかない。二人の後姿を見送ってから、一つため息をこぼす。 ふと視線をずらすと新入生の一人がぽつん…っと側に立っていた。 「あ…、お前置いていかれてるぞ?」 貴之よりも十センチ弱小さい一年生に、彼は珍しく自分から声をかけた。 彼はにこっと笑ってのんびりした口調で「いいんです」といった。 (変なヤツ……) 基本的には貴之は人のことはどうでもいいと思っているので、彼のことも声をかけたはいいが、実は大して気にしていないのである。 「まぁ、変な部活に引きずられないようにしろよ」 小さくうなずいた彼を見て、貴之は人の声が届かない、唯一の安息の場所へと歩き出していった。 そして、一年生も貴之がいなくなってすぐに、自分の教室まで戻っていった。 ☆ ☆ ☆ 外の喧騒も全く届くことのない設備の整っている第五音楽室だけが彼の安心する場所だった。内部の音も外部の音も防音というありがたいもので遮断されているので、ここは何もしない限り無音の空間である。 ピアノの椅子に腰をかけてボーっと空を眺める。 「やっぱ落ち着くな…」 深い息を吐いてピアノのほうを向いた。 ピアノの蓋が開いていた。ワイン色したフェルト生地のカバーがかかっているということから、ついさっきまで人がいたのだろうと考えた。まぁ、一般生徒なら、ピアノの前に貴之がいたら、他の部屋へと逃げるようにして移動していくから彼にとって、何の問題もないものと同じだ。 (さっきの一年、弱そうだったな…) 自分の意見がいえなくて、気付けば回りに流される人、そんな種類に見えた。本当のところはどうか知らないけど。 でも、結局は自分もそういう類に入るということを貴之は知っていた。学校では好き勝手やってる。それでも『自分』というものを表面に出していない。好き勝手できるのは、ピアノが弾けるから。世界的に有名なピアニストの息子だから。 (……それでも、ながされてる) 血縁は仕方ないと。 まだ何も出来ない自分には、親の言うとおりにするしかないのだ。どうせ何を言っても彼には適わない。「じゃあ、実力を見せろ」と言われるのが落ちだから。 (ピアノが好きなだけなのに……) どうしてうまくいかないんだろう。 貴之はピアノのほうに向きなおした。 ここでは、どんな風に弾いても誰も文句はいわない。自分の好きなように出来る。だから、どこよりもここが一番好きだった。 かさっ…と足元で掠れた音がした。 「……?」 何気なく音のしたところを見てみると、少ししわの付いた楽譜。それが楽譜だと解った途端、興味津々で譜面を読みふける。 貴之がピアノを好きだからこその行動だった。 今まで聞いたことのないようなメロディーラインに、貴之はこの楽譜は誰かが作曲したものだとわかった。五枚目の途中で楽譜が切れていた。最後が完成していないようだ。 「綺麗な曲だな。繊細で細くて、でも心を魅かれるような……」 楽譜を譜面立てに乗せて、静かにピアノへと手を誘う。 この楽譜を書いた人の気持ちを壊さないように、貴之はそっと音を紡いでいく。作曲者の、誰かを思って書いた気持ち、そしてそれに共鳴してく貴之のピアノを愛する気持ち、この二つが重なり合って生まれるメロディーは全くピアノに興味のない人でさえも、足を止めて聞き入ってしまうほどのものだった。 貴之自身もこのメロディーの心地よさに全身の神経が捕らわれたようになっていた。それほど、この曲の完成度は高い。 かたんっ・・・・とドアのほうで音がする。 「…それはっ…俺の曲だろ!?」 ものすごい勢いでドアのところから少年が駆け寄ってくる。多分ドア尾を空けたときにメロディーの一端が聞こえたのだろう。 「何で、あんたが弾いてるんだよっ!!返せよ、泥棒!俺の、俺の大切な曲に触れるな!」 貴之の前に来て、彼は自分の楽譜をばっと取り戻すと、泣きそうな顔で思いっきり貴之を睨みつけていた。 「言い訳に聞こえるかもしれないけど、俺は落ちてたのを拾って、きれいだと思って弾いてみただけだから…」 貴之は彼の目を見ずに言った。彼は苦手な相手だった。出来ればあまりあいたくない人物なのだ。 「あなたに……、笹本先輩には、そんなこといわれたくありません。所詮親の七光りのあなたなんかにっ…。失礼しました」 怒りをぐっとこらえて彼は出て行った。それでも楽譜だけは大切そうに胸に抱えていたから、よっぽど思い入れのあるものなのだろう。ほんの少しだけ悪いことをしたかな、と思わなくもないが、大切な楽譜を忘れていくほうも悪いのだ。 彼は自分を嫌っていることも知っていた。毎週貴之の父親のところに来て、「弟子にしてください」といっていることも。会うたびに「七光り」という言葉を貴之に投げつけていく。 彼はふわふわとした天然パーマのかわいい容姿で、年上の貴之に一番嫌な言葉をいとも簡単に言う。それほどに怒りと嫉妬と羨望が強いのだ。おまけに生徒会の会計もしているので、シンパも多い。そのせいで彼、藤堂夏姫からだけでなく、夏姫シンパからもいろいろ言われることもあった。 「…はぁ。藤堂のだったのか……。どうりで人並みはずれてい綺麗だと思ったら…」 深くため息を吐く。今更どうなるわけでもないが、失敗した、と思わずにはいられなかった。 貴之はピアノのカバーをかけて、蓋を閉め、その上に顔を伏せた。 「七光りか…。藤堂が、親父の息子なら良かったのにな……」 誰にも聞こえないような小さな声でぼそっと呟いた。 貴之は何も考えたくない、というように、まぶたを静かに下ろした。 ギィィ・・・っと、またも扉を開く音。 「…まだ何か言いたいことがあるのか?藤堂…」 入ってきた人物の顔も見ずいn貴之は機嫌悪そうに言い放つ。 「……」 「……?何なんだよ…って、おい、お前はさっきの一年じゃ…」 第五音楽室に二度目にやってきたのは夏姫ではなく、城太郎が演劇部に勧誘した一年の片割れだった。 「あ、ハイ。ごめんなさい、急に入っちゃって…。なんか綺麗な音が聞こえたから……」 相変わらずぼやっとした声で貴之に謝る。 「別に謝ることはないさ。生徒の出入りは自由なんだから。ま、俺は帰るわ」 今は人と関わりたい気分じゃないのだ。貴之はそそくさと荷物をカバンに詰めて、振り向かずに出て行った。 そういえば今の一年の名前なんていうんだっけ…ということがチラッとだけ頭を掠めるが、本当はそれどころじゃなかった。心のモヤモヤは収まるところを知らないようだ。 貴之と入れ替わって第五音楽室に来た一年生は、ピアノ蓋を開けて、貴之の触れた鍵盤をじっと見つめた後、たどたどしく人差し指で、先ほどのメロディーラインをポロン…と鳴らしていた。 |