月が割れる日
月明かりに濡れた肢体が浮かび上がる。 しっとりと湿った肌は、その部屋の湿度をも上げているようだ。 「行成……」 汗ばむ身体を繋いだままで男は声とも吐息とも判断の付けがたい声で囁く。 月明かりでそのシルエットだけが浮かび上がっている。 行成と呼ばれた青年は、息を整えながら、声を掛けた男を見る。 「和俊さん……待って……」 意気があがって途切れ途切れのその言葉は煽情的に男をあおる。 男は笑みを浮かべたまま、動きを止めようとしない。 待てと言った青年、行成も身体は言う事を聞いてくれない状態らしく、この行為が終わるまで我慢しようと、自ら腰を動かした。 「……あっ、つ……」 「で? 何でさっき、待てって言ったんだ?」 行為が終わり、濡れたままの身体を重たげに起こし、男は煙草に火をつけた。 その様子を行成はベッドに倒れこんだまま視線を注ぎ、微笑んだ。 「何で怒ってるんです?」 なんとなく不機嫌を装っている男をかわいいと思ってしまうのは間違いかもしれない。 「怒ってなどない」 「……違いますって。別に嫌だったわけじゃないんですよ」 不貞腐れている様子はまるで子供だった。 「ただ……」 何かを含んだ言い方の行成に、男は覗き込むように瞳を返した。 「なんだよ」 「……嫌な感じがするんです。何かが……動き出してるような」 いつもと様子の違う彼に、男は覆い被さって濃厚な口付けをして、言葉を制した。 「……今は、考えないほうが良い」 自分には何もない。 生まれてからの大切なものを失ってしまってからは……。 御堂籠夜はいつもの教室で、いつものように毎日を送っていた。 柔らかい印象の籠夜は誰からも好かれる容貌をしていて、もちろん性格もそのようで、生活していくうえでの友達程度なら、沢山いた。 だが、物足りないのだ。 けれど積極的な性格とは言えず、自分から新しい事をするというような自発的な人間ではなかった。 ただ、流されている。 「まぁ、それが一番楽なんだけど……」 机に肘を掛けながら呟く。 「籠夜?なにが楽だって?」 隣の席で面白そうに覗き込んでいるのは、唯一籠夜の何もかも話せる友人、関口新だった。 籠夜はまたからかうネタを探していそうな友人に向かって、きつい視線を送ると共に、舌を出した。 「うわ〜、かわいくねぇな」 綺麗だの、かわいいだのといわれる籠夜の容姿をそういわない新は好きだった。 あまり言われても嬉しくない、というのが正直な気持ちなのだから。 大体、男に向かってかわいいはないだろうと思う。 一応そう言ってくれる人には愛想笑いで誤魔化しているのだが。 それを知っているからこそ、新は絶対に言わないのだ。 「そりゃあどうも」 籠夜にしたって、どうせなら新のような男らしい顔に生まれたかった。 どうも頼りないように自分は映っているらしい。 「今日さ、暇?」 放課後になっても帰ろうとしない籠夜に、新は声を掛けた。 すでに授業は終わって、みんな部活やら遊びやらと学校を飛び出しているのに、籠夜はいつも遅くまで教室で本を読んでいるのだ。 それに新は部活が終わってくると付き合って残っている。 別に、籠夜が何をしたいかは知らない。 けれど付き合うことはいやではなかったし、この年頃の男にとって話のネタなんて尽きる事はない。 他愛のない話をとめどなくしているのが楽しかったのだ。 「暇って……これから遊びにでも行くつもり?」 「おう、そりゃそうだろ」 外はすでに薄暗くなってきていた。 時計の針は7時をさしているが、日が長いこの季節はまだかすかな光を残している。 「……行きたいけど」 籠夜は時計に目を向けた。 「なに、もう帰る時間?」 別に男なのだから、帰りが遅くなったってどうって言う事はない。 だが、籠夜にとってはその一般的な考えが通用しないのだ。 「家、うるさいから……」 ちょっとでも帰りが遅いと、無理やり持たされた携帯電話が着信を告げるのだ。 籠夜にとってそれは迷惑でしかないのだ。 「そっか、そうだよな、お前の家」 何度か籠夜の家に足を運んだ事のある新は、その格式ある家柄を思い出して苦笑いを浮かべた。 「ごめん」 指定かばんに荷物を詰めながら籠夜は笑った。 「まぁ、俺も部活やってるから仕方ないけどな。今度休みにでもまた遊びに行こうぜ」 「そうだね」 気をつけて帰れと一応告げて、新は机の上に腰を掛けたまま手を振った。 そんな心遣いが嬉しかったりもするのだが。 ……ただ、足取りは重たい。 籠夜の高校と家はそんなに離れているわけではない。 それでも、家が近づくと足が進まなくなってしまうのだ。 ポケットを探り、籠夜は携帯を取り出して、短縮ボタンを押す。 呼び出し音が、心臓に響いてくる。 『はい、御堂ですが』 聞きなれた声に籠夜はほっと溜息をついた。 「もしもし、籠夜だけど、兄さん?」 『おう、どうした?』 籠夜は父親が出ない事に安堵感を感じえていたのだ。 嫌いなわけではないが、どうも苦手であった。 電話を取ったのが、二番目の真行だと知って携帯を握り締める力を緩めた。 「ちょっと遅くなりそうなんだよね」 『あぁ、わかった。伝えといてやるよ。でも、なるべく早く帰って来いよ、なんか最近物騒だしな』 真行は心配そうにそう告げるが、電話越しの籠夜は苦笑していた。 「うん、ごめん」 電話が切れたあと、籠夜はもう一度溜息をついた。 もう、高校生にもなるというのに、この過保護ぶりは一体どういうことなんだろう。 大学生になったら……いや、それはないだろう。 籠夜が自分で未来を決める事など出来ないのだ。 わかっているけれど、考えれば考えるほど、普通の高校生である友人が羨ましくなってくる。 一応の連絡を済まし、ちょっと月でもみようかという気分になった。 心を落ち着かせるために、籠夜はいつも月を見ていた。 なんだか、失ったものを見てるような気がして、自分が完全に自由であるような錯覚に陥るのだ。 家の近くの公園のベンチに腰をかけて、何もない空に浮かぶ月を見上げる。 今日は満月。 このまま時が止まってしまえばいいといつも願う。 しかしそれが叶わない現実に、これから家に帰って仮面をかぶる準備をここでしているのだ。 月は完全な弧を描き、暗闇を照らしていた。 ふと目線を下のほうにやると、水溜りに月が反射している。 その形は、本物とは違い、不安定にゆがんでいる。 いつもなら、幻想的なその様子を見ているのだが、それがなぜか今日に限って気持ち悪いと感じた。 揺れ動く術は、何かがそこに潜んでいるのを示しているようだ。 だが、目が離せない。 囚われたかのように、体が動かなかった。 そして、籠夜は自分の目を疑う。 水溜りの水が、立体的に人の形をうごめきながら形とっていた。 「……え」 何で、と続ける事、この異常な光景から逃げ出す事も出来ないくらい、籠夜は動揺していたのだ。 ただ、感じるのは悪意。 何かをうらんでいる、その気持ちだけが伝わってくるのだ。 あまりにも強い恨みに、籠夜が誰かを恨んでいるような錯覚に陥りそうになる。 ただ、これを抑えたのは、小さな頃に教えてもらった気持ちを落ち着ける色を思い浮かべる事。 がくがくと震える体。 近寄ってくる半透明な水の物体。 ……恨んでいる、自分を。 何かした覚えは全くないが、この物体は恨みが強すぎて、すべてのものにこうした感情をぶつけるようだ。 それを裏付けるように、籠夜のところまでにあった公園の気を触る事もなく、まるで水のように溶かしてしまった。 「……」 現実離れしているのに、夢だとは感じない。 感じるのは、自分の危機だということ。 「は!」 不意に後ろのほうから水の塊がすごいスピードで飛んできて、その物体に当たる。 何が起こったのかわからなかった。 けれど、微かに感じたのは、同じ水でも、この物体よりもそれは澄んでいて綺麗なものだったという事。 その水によって、じゅっと物体は音を立てる。 その音に、籠夜は叫ぶような物体の心を聞いた気がした。 物体は、溶けるように消えていく水の当たった場所をかばうようにして、元の水溜りに戻る。 恐る恐る後ろを振り返る。 「……!! 行兄さん!?」 公園内は相変わらず暗闇を保っていたが、さすがに肉親のシルエットは籠夜にはすぐわかった。 呼ばれた本人は、明らかに驚いていたが、籠夜も同じだ。 わけがわからないまま、籠夜と行成はお互いに立ち尽くしていた。 「おい、ユキ〜!そっちだったか?」 「……ちょっとっ、文隆!そんな速く走るなって!! あ、ユキちゃんいた!」 行成の更に後方から声が届いて、二人は振り向いた。 「文隆兄さんと、春樹君……? 何でここに……」 近づくにつれて、走って行成のほうにきている人が、自分の従兄弟だと気付くまでそれほどの時間はかからなかった。 でも、籠夜には更なる疑問が生まれる。 仲のよい従兄弟とあっても、早々会う機会などない。 それなのに、こんな夜遅くに行成と一緒にいたような雰囲気の二人は? 一体三人で何をやっていたのだろうか、と。 「あれ?籠夜じゃん」 息を切らしながらも文隆の後についてきた高藤春樹が、籠夜に気付いたらしく、何もなかったように近寄ってきた。 文隆と春樹は母方の従兄弟で、割とよく会っていた。 「どうしてここに、籠夜が?」 文隆が、いたずらがばれた子供のように表情を濁した。 「……いや、俺もびっくりしたんだけど、偶然……だよな」 行成のちょっと現実感のない返答に、文隆と春樹は顔を見合わせる。 「見られちゃったって言う事なのかな」 「っぽいよな」 何がなんだかわからない籠夜は、ただ三人の顔を交互に見比べる事しか出来なかった。 「……何がなんだかよくわからないんだけど」 一応の説明を受けたが、籠夜には理解不能なことばかりで余計混乱を招いていた。 どうやら、この三人は闇の中から生まれたさっきのような物体、いや、生き物らしいが、それを倒しているらしい。 「俺達の力って、こういう使い道だったって言う事なんだよ」 そう、そして、この三人は、籠夜と共通のものをもっていた。 今まで全く知らなかったのだが。 動揺しているのは行成も同じらしく、すべて、文隆が説明してくれた。 春樹も横から茶々を入れるのを忘れる事はなかったが。 「でも、……あれってなんなんでしょう」 さっき見た、この世のものとは思えないほどの物体の事を指し、籠夜は文隆にそう聞いた。 しかし、文隆も苦笑いを返してくるだけだ。 「籠夜、俺たちもよくわからないんだ。ただ、戦わなくちゃいけないってことだけしか」 黙って呆然としていた行成がはじめてまともな返答をよこした。 「早々、俺たちだってよくわかんないんだよなー」 いちいち楽観的なのは春樹である。 そのたびに文隆から呆れた視線をよこされるのを知っているのに止める事を知らない。 「……籠夜も、持ってるだろ、力」 行成にいきなりそう言われて、ベンチから転げ落ちそうになった。 自分だけじゃなかったという安堵というよりも、ばれていたのかという、なんとも言えない気持ちが胸にあった。 籠夜は何も言わずにただ頷く。 父親が忌み嫌うこの力のことは誰にも言えなかったのだ。 いい子であるために。 それをしっかりとこの兄は気付いていたらしい。 苦しいのは自分だけではないという事を改めて気付かされた。 「父さんは……?」 知っているのか、と。 行成は首を振った。 行成でもいえなかったようだ。それだけ、この力は御堂の家では禁句とされている。 「……敵の統領は確実に人間なんだ。それはわかってるんだけど。……多分、似たような力をもっている人が悪用しているんだろうな」 文隆も春樹も、御堂家の事情は知っているので、口をはさんでこない。 「人間同士がそんなことするなんて、悲しいだろ。……だから俺は戦うんだ。この力で……。ただ、同じ力を持ってるからって、籠夜にはそれを強要したくない」 「なんで……?」 行成は真剣な顔をして、籠夜を見つめていた。 「……かわいい弟に、危険な事をさせたくないからさ」 もしこんな事が家族にばれたら、間違えなく非難されるのは自由気ままにやっていた行成のほうだろう。 だから、籠夜もそんなことは起こさせたくなかった。 けれど……。 もし、この力が助けになるなら……。 そこに、自分がいる意味を見出せるなら……。 そう思うと、無意識に籠夜は首を振っていた。 「……籠夜?」 三人が、その籠夜の様子に目を奪われる。 普段のポーっとした籠夜の眼差しではないものが、その瞳に映っていた。 「……俺も戦うよ。だって、誰かが傷つくんでしょ? それなら、俺だってその誰かを助けたい。……出来るなら、だけど」 籠夜の決心は消してその場しのぎのものではなかった。 それは籠夜をよく知らない人でもわかるくらい真剣な眼差しで。 「……つらいかもしれないぞ?」 兄としては参戦して欲しくないのが本音なのだろう。 強い戦力になっても、傷つくのが目に見えている。 だけど、籠夜の決心を否定するほどの理由はない。 籠夜は「わかってる」と頷く。 「……じゃあ、俺たちと力をあわせてくれ」 行成は諦めたように、そう告げて、微笑んだ。 その表情を見て三人はほっとした。 これで、また戦いやすくなる。 何も見えない敵に立ち向かうのは、精神的にもつらいものがあったのだ。 一人でも仲間が加わると、気持ちにゆとりが出来る。 「やったね!って……ちょっと!!」 笑顔で微笑んだ春樹が、空を指差して大声をあげる。 その指差すほうに全員が目を囚われた。 「や……なんで?」 言葉が出てこない。 「月が……二つ!?」 「そんな!!」 月は、徐々に離れていっていた。 同じ形、同じ色で、何の違いもないものが二つに……。 「……何かが、起きるかもしれない……」 そう呟いた行成の言葉に、三人は二つの月を見上げたまま、何も言えなかった。 |